2015年4月12日日曜日

めちゃくちゃハッピーな人生ではないけれどそれもまた


いつの間にか社会人になった。

休日もちょこちょこ仕事関係の作業をしていて、「仕事が趣味」みたいになっている。ちょっと待てよ、趣味は自分がすきなこと、ということは仕事が趣味というのはめちゃくちゃハッピーな人生なのでは!と一瞬思ったけどたぶんそうじゃない。

でも、平日にはやりたくてもできない仕事を休日にしているのが、今はなんか、ふつうだ。
そうすることで、わたしはわたしの見たいものへと少しでも近づいてゆく。
もちろん、ずうっとこのままではない。まだはじまったばかりだからね。今はね。
こころもからだも気持ちいい!という感覚を忘れずに、日々を暮らしてゆきたい。

わたしの歌をうたおう


短歌をめぐるコミュニケーションはすなわち、思いをこめたことばをやりとりするコミュニケーションである。

さよならをあなたの声で聞きたくてあなたと出会う必要がある
(枡野浩一『歌  ロングロングショートソングロング』雷鳥社)

この歌は、書かれてはいないが〈わたし〉という主人公のいる歌だ。
「さよならをあなたの声で聞きた」いのは〈わたし〉で、〈あなた〉への思いをこめた歌である。この歌は〈わたし〉から〈あなた〉への歌であると同時に、〈あなた〉と出会うことができた過去の〈わたし〉への、そしていつか〈あなた〉と別れるであろう〈わたし〉への歌でもある。
実際に〈あなた〉へこの歌が手わたされることもあるだろうし、そうでないこともあるだろう。しかし短歌をつくった時点でこの歌は〈わたし〉から、〈わたし〉のなかの〈あなた〉に手わたされるし、〈わたし〉から〈わたし〉へとわたされる。そして何より、この歌を読むことによって〈わたし〉から、読み手であるわたしにも手わたされる。
わたしは誰かと離ればなれになって悲しくてたまらないとき、この歌を思い出す。そして、どんなことになっても、わたしがあなたと出会ったことに意味はあったのだ、たしかにあったのだと、こころにたしかめている。
短歌という詩型にことばを注ぐことによって、思いを保存し、誰かに、そして未来へと手わたすことができるのだ。このようにして短歌を手わたしたいし、手わたし合う場をつくりだしていきたい。



研究のひとつの着地点として、どうしても書きたかった。読んでもらえて、よかった。

2015年1月28日水曜日

『ひとつの歌』をみた



杉田協士監督作品『ひとつの歌』をみた。
この映画が渋谷で公開されたとき、ちょうど教育実習と大学院入試と卒業論文が重なっているいちばん忙しい時期で、どうしても渋谷まで行くことができなかった。

今回、『ひとつの歌』が荻窪ベルベットサンで上映されるということで、やっとみることができた。
杉田監督が書いた小説「ひとつの歌」(すばる2月号掲載)を読んでから行こうと決めたけれど、小説と映画が全然ちがったらどうしよう、と思って一度だけ読んでいった。

映画をみたあとにトークの時間があって、「小説を読んでから映画を観たひとに話を聞いてみたい」ということになり、監督に指名された。
わからなかったらどうしようと思っていたけれど、わかるとかわからないとかじゃなかった、と感じたことを話した。

そのときはうまく言えなかったけれど、いま思うのは、小説よりも映画のほうが、何もない時間がたくさんあったということ。
ベンチにただ座っているだけとか、バイクに乗せておいたヘルメットが地面に落ちるとか、
そういうこと、ことばにすると「意味」が加わってしまうような、でもそれは「意味」のないということでその世界に存在しているような、そういうことがいくつもあった。
暗いトンネルから出たときに、ふたりがバイクに乗っていることが見えること、バイクに乗っている背中も、ミラーでどんな表情なのかがわかること。そういう一つ一つのことが、たまらなくすきだった。
わかるとかわからないとかじゃなく、そこにあった。
小説を読んでいるとき、映像がなんとなく頭にうかんだけれど、それとはちがうことがたくさんあった。部屋のものの配置も、映しかたも、ちがっていた。まったく当たり前のことだけど。想定外というのともちがう、そのことがなぜか、よかった。自分というものの範囲以外のところで、何かがあること、それをながめる。
あと、子どもたちへのまなざしがすきだった。駅前を歩く制服の小学生、道路を二列で歩いている幼稚園生たち、ワークショップに参加する子どもたちなど。


写真を撮るとき、できればその場で起こっていることをかっこよく、美しく、そのまま撮りたいと思うきもちがどこかにあるような気がする。
でも、この映画に出てくるポラロイドカメラは、フィルムは高いし、撮るまでに時間がかかるし、コンパクトとは言えないし、写真もちいさい。
でも、そういう、輪郭のはっきりしない、小さなものが、記憶なんだと思う。この映画は、記憶の映画だ。



映画をみているとき、スクリーンの奥にガラスの壁があって、外の道路がすこしだけ見えて、たまに車のライトの光がぐうっと真っ暗な部屋にはいってくることや、
杉田監督が床に体育座りをして映画をみている背中。

帰り道は小雨が降っていたけれど傘がなくてそのまま歩いて駅まで行ったことや、
空き缶が音をたてて道路を転がっていったこと、
いつも巻いているストールを忘れてしまって首元がすこし寒かったことなど。
そういうこと、いつかわすれてしまうかもしれないけれど、映画とは直接関係ないことかもしれないけれど、そういうことが重なって、映画がわたしだけのものになるような気がする。

会場には映画に出演している枡野浩一さんもいらっしゃって、久しぶりにお見かけしたのですが、やっぱりやさしい方だなあと思いました。席のゆずりかたが、スマート、ではなくて、やさしい。

杉田協士監督は、枡野浩一さんの『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)という短歌集で写真を担当している。この短歌集が、とてもすきだ。
ひとり暮らしをはじめてまだ本棚がなく床に本を積み上げていたときに、友人が家に遊びに来て、
この本を見るなり「貸してほしい」と言って借りて行った。短歌にも写真にも興味がない子だったのに。
杉田監督の映画ワークショップを受けたとき、この本にサインをもらった。


さよならをあなたの声で聞きたくてあなたと出会う必要がある (枡野浩一)

『歌 ロングロングショートソングロング』の帯に書かれたこの短歌を、わたしは大切に思っています。この歌のことを書いた文章を、いつか、ここにもまた書きます。



『ひとつの歌』、またどこかでみたいです。

2015年1月23日金曜日

2015


2015年なんて、ずいぶんと未来にきてしまったような気がします。
寒い日が続きますね。
わたしは年末に湯たんぽを買ったので、いっそう布団がすきになってしまいました。



2015年のテーマは「出会う」

これまで過ごしてきた場所をはなれ、新しい場所へと進みます。
たくさんの「はじめまして」があり、「ごめんなさい」も「ありがとう」もきっとたくさんあるでしょう。
水のなかの抵抗のような、自分では気づかない、世界からの力がどんどんたまって疲れ果てるかもしれない。

でも。わたしは目をこらし、地面に足をつけ、歩く。歩いていく。
いろいろな人とめぐり会い、いろいろなものを見る、そんな一年になると思います。
いつだってわくわくしていたい。

きっと大変なこともたくさんあると思いますが、
今までやってきたことががらがらと崩れ落ちることもあると思いますが、
それでも、わたしは飛び込んでみたいと思うのです。
だって、わたしが毎日会いたいから。毎日出会い続けたい。
あたらしいわたしにも、あたらしいあなたにも。


2015年もどうぞ、よろしくお願いいたします。



泉かなえ拝

2014年12月9日火曜日

最近のこと(2014.12)

・石田波郷賞落選展に参加しています
「週刊俳句」でおこなわれている石田波郷賞落選展に参加しています。
賞に応募した連作20句を、webで読むことができます。今回入賞はできませんでしたが、秀逸十句選に三句とっていただきました。

鉛筆を削るにほひや夏座敷 (甲斐由起子 選)
まとふ身にセーターが合ふやうになり (岸本尚毅 選)
ハンカチの刺繍うらがはよりなぞる (齋藤朝比古 選)

それから、一緒にハキョトク(波郷賞特訓)をしていた、れなりん(今泉礼奈ちゃん)が奨励賞を受賞したことが、自分のことのようにうれしかった。おめでとう!
ハキョトクメンバーのみんな、文香さん、ありがとうございました。たのしかったです。

泉かなえ「花束」(2014石田波郷賞落選展)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/


・「いつも通りのカーディガン」フリーペーパー発行しました


黒井いづみちゃんとの短歌ユニット「いつも通りのカーディガン」でフリーペーパーをつくりました。
いづみちゃんは、同い年・名前が似ている・初対面のとき二人とも黒髪ボブ&ボーダーの服(周りのひとを混乱させた)・合唱経験者・中学から短歌をやっている・来年4月からは職業も同じ、などなど共通点を挙げたらきりがありません。
そんなわたしたちは昨年末に短歌ユニットを組みました。紅白短歌合戦'13のあと、はじめての活動がこのフリーペーパーです。
「めくるめく贅沢」というテーマに合わせて、それぞれ短歌5首と短い文章を書いています。
先日の文学フリマで配布しましたが、まだすこし残部がありますので、もし読んでくださる方がいらっしゃいましたらご連絡ください。お送りいたします。

 カーディガンのあなたが帰り半袖のあなたがやって来て夏になる  (黒井いづみ)
 すっぽりと包まれて聞く心臓のリズムがいつも通りでずるい (泉かなえ)


・屋根裏句会はじめました
わけあって、屋根裏句会という句会を千葉で月に一回開催しています。今月で5回目。
基本的に、俳句はじめて!句会はじめて!という方ばかりの句会です。
毎回10人前後で、俳句についてわいわい話しています。
わたしは今月欠席予定ですが、来年1月から3月までは毎回出席しますので、もし俳句に興味がある・句会を見てみたい(見学でもだいじょうぶです)という方はぜひご連絡ください。
屋根裏みたいなお店で、ぜひ句会しましょう。


毎日寒くて寒くて逃げ出しそうになるけれど、こんな日がいつかなつかしくなるのだろうと思わずにはいられない。
最近はチャイばかり飲んでいます。

2014年11月22日土曜日

インフルエンザの予防接種を受けに病院へ行き、体温を測ったらなんと熱があった。当然予防接種は受けられず、念のため診察を受ける。風邪の症状はないので、疲れがたまっているのだろう、との診断。一時的に体温が上がっただけかもしれないし、風邪のひきはじめかもしれない、とのことで、処方薬をもらって帰る。元気なのかそうじゃないのか、自分でもよくわからない。でも、くるりを聞いて、心のなかにある手の、ゆびの、先のほう、が、じわりとやわらかくてあたたかいものにふれたような感覚になるので、たぶん弱っているんだと思う。こういうとき、どうしたらいいのかわからない。寒いとさびしいはまちがえやすい。そう思うと、昨年の今ごろは、いろんな人に救われていたのだと思い返す。疲れ果てて電車に乗ったとき何気なく連絡してご飯を食べに行ける人がいるとか、夜中に一人暮らしのアパートでどうしようもなくさびしくて眠れなくなったときに電話ができる人がいるとか、そういうの、ほんと大事だったんだな。ポカリが、喉の奥のほうで苦くなる。
お菓子の袋は、細長く折りたたんでしばる。カルディでインスタントのチャイを買った。半分くらいまではおいしいのに、最後のほうになるとそのおいしかった気持ちが信じられなくなる。冷めるから?
こんなふうに書いてはいるけれど、楽しいことがないわけではなく、これからも楽しみな予定はいくつもある、けど、それとは全然関係なく、自分の気持ちはふらふらと体育館の床の白いラインを踏んだり踏まなかったりしながら歩いているみたいだ。今も何色が何の競技のラインなのかわからないよ。今夜は写真集をぱらぱらとめくって寝ます。明日から忙しい。

2014年10月11日土曜日

一人旅というほどでもなく

盛岡に行ってきました。研究の諸々で。

岩手に行くのは二回目。前回は岩手にいる友人に会いに行ったのですが、そのときは、夜岩手着、翌日夕方東京へ、という弾丸ツアーでした。
今回は二泊三日。そのうち、半日オフがあったので、市内散策してみました。

ランチを食べた喫茶店。雰囲気がとてもよかった。たぶん近所に住んでいるのであろうおじちゃんおばちゃんが来ているところもいい。ホットサンドがおいしかったです。


歩いていて見つけた郵便局。蔦がすごい。
ご当地切手みたいなものがほしかったけれど、これ!というものがなくて買いませんでした。


市内の観光マップを見たらレンタサイクルがあることがわかり、自転車を借りて市内を走ることにしました。

まずは盛岡城跡公園へ。石川啄木の歌の碑を見ました。
碑はけっこう高いところにあって、上り坂がつらい。
公園内の広場にあるブランコで女子高生が二人おしゃべりをしていました。ゆるやかな時間。

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心 (石川啄木)
正直に言うと、この歌はそんなに思い入れがあるわけじゃなかったけど、いつか学校で教えることもあるだろう、ってくらいの気持ちで行ったわけです。
そしたら、台風のあとの空がすごかった。

城跡から見た景色。
碑のある、高台になっているところから空を見たあと、すこし下ってからまた空を見たのですが、やっぱり、高いところから見る空のほうが迫力がある。
空をながめていたら自然と啄木の短歌を口に出していました。
啄木がほんとうにこの場所から空を見ていたのかはわからないし、当たり前ですがこの日の空は見ていない。
でもこの空を見て、「空に吸はれし」ってこういうことだなあ、と思わせた啄木の短歌はちょっとすごいと思いました。見直した。


つい気になってしまう石垣。

城跡公園のあとは、もりおか歴史文化館をすこし見て、
岩手銀行旧本店本館の前を通って(工事中で外観が見られず、残念)
もりおか啄木・賢治青春館へ行き、
岩手県庁の脇を通って、材木町のほうへ。賢治の像を見たりしました。
知らないまちを自転車で走るのもけっこうたのしい。歩くよりも遠くまで行ける。



なぜか啄木の新婚の家にも行きました。
「啄木新婚の家口」っていうバス停があって、笑ってしまったのはひみつ。

市内には、宮澤賢治関連のものも多くありました。二人は同じ学校出身で、啄木が10歳上らしいのですが、かなり影響を受けていたらしいということが記念館に行ってわかりました。

それから、古書店をちょこっとのぞいたのですが、やっぱり啄木や賢治の本が多かったです。
今回は買うのを見送ったけれど、やっぱり自分で見に来ないとわからないことってたくさんあるな、と思いました。



そしてなんと来週も岩手へ行く予定です。新幹線に乗るのが得意になる。